批評の誕生

─諷刺の黄金時代

Seibun Satow

 

"I much prefer a compliment, even if insincere, to sincere criticism”.

Titus Maccius Plautus “Mostellaria

 

 一八世紀の英国を代表する偉大な知識人マータイナス・スクリブレラス博士がこの無知蒙昧のまかり通る状況を見たら、「こんなものが諷刺だと言うのかね?まったくけしからん。批評はどこにいったのか?」と嘆くことだろう。何しろ、彼は古今東西の学問に精通し、その知識の確かさたるや当代随一と評された人物だからである。

 デンマークの『ユランズ・ポステン(Jyllands-Posten)』紙は、二〇〇五年九月三〇日、イスラムの預言者ムハンマドの政治諷刺漫画を掲載する。同紙もイスラムが偶像崇拝を禁止していることを知らなかったわけではなく、「表現の自由」など載せた理由をつけている。けれども、このカリカチュアの中には、ムハンマドのターバンが爆弾にデフォルメされているものが含まれ、それはあたかも教え自身がテロリズムを誘発している、もしくはムスリムは本質的にテロリストなのだと言わんばかりである。イスラムにおける最も重要な偶像崇拝の禁止に背いているだけでなく、預言者を侮辱したというわけだ。しかし、ダンテ・アリギエリの『神曲』の時代ならともかく、もう二一世紀に入っている。これが世界に伝えられると、デンマークのみならず、欧州で謝罪を要求するデモが巻き起こったり、イスラム諸国の政府・神学者・民衆から抗議が発せられたりするなど各地に波紋が広がる。欧州の活字媒体の中に、ノルウエーのキリスト教系雑誌『マガジネット(Magazinet)』のように、「表現の自由」を掲げ、同じカリカチュアを転載するものも現われる。騒動が年を超えても続く中、『ユランズ・ポステン』はイスラム教徒の感情を害する諷刺画の掲載を謝罪しつつ、いかなる場合にもタブーがあってはならないと公表する。

 言論の自由は、英植民地当時のニューヨークで、一七三五年八月、新聞発行人ジョン・ピーター・ゼンガーが裁判を通じて勝ちとった権利に由来している。彼は植民地総督の不正を告発する記事を載せ、それを理由に当局から訴えられたが、名誉革命の意義を尊重する陪審員は新聞の方に正当性を認め、無罪にする。このように言論の自由は行きすぎる傾向にある権力の抑制として生まれ、行使されてきたのであり、かの機知に欠ける漫画を掲載する理由として用いるのには無理がある。”L’ironie est la bravoure des faibles et la lâcheté des forts” (A. Berthet).

 この事件は、表現の自由が問われたと言うよりも、ヨーロッパの中にあるイスラムに関する偏見や無理解が露呈したと見るべきだろう。その後、欧州各地で、イスラムに係わる表現が自粛されているが、これは諷刺画事件と表裏一体である。垂れ流しと自粛は日本で頻発する現象である通り、オール・オア・ナッシングは極めて安易な他者への理解や共生を放棄しているにすぎない。

 しかも、諷刺の歴史はこの権利の確立よりも古い。一七〇一年から一四年まで続いたスペイン継承戦争に際し、一七一二年、英国のジョン・アーバスノット(John Arbuthnot)は対フランス和平締結を主張し、パンフレット集『ジョン・ブル(The History of John Bull)』を刊行する。このジョナサン・スウィフトとアレクサンダー・ポープの友人は参戦している各国を擬人化し、英国を「ジョン・ブル」と名付けている。その自画像は、小柄で半ズボンを履き、大胆ながら、気分屋で、気さくだが、指図されるのが大嫌いで、酒と遊びに目がなく、友情を大切にし、ブルドックを従えているというものである。このジョン・ブル像は、今日のエスニック・ジョークに登場するイギリス人と異なっているが、自分自身に対する諷刺であり、この行為自身が英国的である。「イギリスでは自分のことを笑えることが大変重要で、逆に自分のことを笑えない奴は野暮という雰囲気がある。英語でself-deprecating(セルフ・デプレケイティング)という、ぼくはそんな感覚を日本語で表現する時は"自嘲的ユーモア"と言っているが、この"嘲る"という感じが持つニュアンスがよくないとの指摘を受けたことがある。たしかにdeprecateという単語は、他人に対してなら日本語と同じ意味になるが、対象が自分自身となるとむしろ肯定的な印象を与える」(ピーター・バラカン『ぼくが愛するロック名盤240)

 諷刺は、いずれも重なり合う場合が少なくないけれども、バーレスク・パロディ・パスティシュの三つに大別できる。「バーレスク(Burlesque)」はイタリア語の「滑稽」に由来し、茶化す目的で対象を模倣する手法であり、そこにはリスペクトはなく、悪意と嘲笑がある。次の「パロディ(Parody)」はギリシア語の「別の歌」を語源とし、同じように捩りであるが、模倣している自分自身も笑いの対象としている点で、バーレスクよりも礼節をわきまえている。最後の「パスティシュ(Pastiche)」はイタリア語の「ごちゃ混ぜ」から派生し、対象よりも、模倣の技法自身に最も関心があり、複数の作品からの模倣を寄せ集めていることが多く、「冷たいパロディ(cold parody)」と言ってもよい。問題のカリカチュアはムスリムへの嘲りが見てとられ、この中では、バーレスクに属している。「ひやかすとは品よく無礼を働くことだ」(アリストテレス『修辞学』)

 諷刺はミメーシスから生じる。しかし、その手法は再現ではなく、記号化である。諷刺を作成するには、対象がその他のものと異なる固有性を把握していなければならない。関根勤が容姿や体形のまるで違うジャイアント馬場を真似る姿を見て、似ていると感じられるのは、その長身プロレスラーの記号を具現化しているからである。諷刺はヴァーチャル・リアリティ、ヴァーチャリティの追求である。「ヴァーチャル(virtual)」の反対語は「リアル(real)」ではない。「名目(nominal)」がそれに相当する。名目の類義語は「仮想(supposed)」や「擬似(pseudo)」である。前者は仮に想定したものであり、後者は外見は似ているが、本質的には異なるものを指す。また、リアルの反意語は、「実数(real number)」と「虚数(imaginary number)」の関係が示している通り、「虚(imaginary)」である。ヴァーチャルは、むしろ、現実の類義語であり、それは表面的にはそう見えないけれども、本質あるいは効果において現実を感じさせるものを意味する。諷刺はこのヴァーチャリティの表現活動であり、諷刺作家には役者の才能が不可欠である。

 諷刺は記号によって構成され、作者と読者はその記号を通じてメッセージを送受信する。規則を了解しながら、それを創作し、受容する。一九世紀の英国の小説家ジョージ・メレディスが「何を笑うか、どんな笑い声かで、その人間の洗練度がわかる」と言ったように、受信側もそのメッセージを受け取る際に、自分自身を記号として他の人に送信してしまう。諷刺は、そのため、記号の規則が通用しない関係では機能し得ない。諷刺が真に表象しているのはルールである。

 完成度が高いほど、記号は通用する世界が広く、より普遍的になる。壁に「消火器」と記された標識は、日本の漢字を読めないものには何のことかさっぱりわからないため、記号としての機能は低い。普遍性が高いほど優れた記号である。

 諷刺は、その記号性のために、さらなる諷刺を生み出すこともしばしばである。ジョン・ゲイ(John Gay)の『乞食オペラ(The Beggar’s Opera)(一七二八)は、資本主義批判を皮肉ったベルトルト・ブレヒトの『三文オペラ』のモチーフになり──彼の提唱した社会的動作理論は記号としての縁起である──、その後、ザ・フーのボーカリストのロジャー・ダルトリーがマクヒースを主演し、二〇世紀後半の社会が一八世紀のバラッド・オペラの世界を日常化したようなものと諷刺している、

 

MACHEATH: So, it seems, I am not left to my Choice, but must have a Wife at last.----Look ye, my Dears, we will have no Controversy now. Let us give this Day to Mirth, and I an sure she who thinks herself my Wife will testify her Joy by a Dance.

ALL: Come, a Dance----a Dance.

MACHEAT: H Ladies, I hope you will give me leave to present a Partner to each of you. And (if I may without Offence) for this time, I take Polly for mine.----And for Life, you Slut,----for we were really marry'd.----As for the rest.--- -But at present keep your own Secret.

(John Gay “The Beggar’s Opera “Act3 Scene17)

 

 記号である以上、諷刺は曖昧であってはならない。記号を読み取りやすくするため、すなわち記号の規則の適用範囲を拡大するため、一八世紀前半の諷刺画家ウィリアム・ホガースは写実的手法を取り入れている。記号は、あるものを他のものと区別する目的で任意で最初は選ばれる。けれども、次第に、それは社会性・歴史性を帯び、十字架がキリスト教を指すように、固有さを表象するシンボルとなる。曖昧なせいで、メッセージが伝わらないとすれば、それは記号ではなく、思いつきにすぎない。

 他方で、すでに記号として特定の意味を持っていることを知らないまま、図柄を使っている光景も、日本に住んでいると、見られる。表現活動を行うのであれば、せめてジーン・C・クーパー著『世界シンボル辞典』で確認するくらいのことはして当然だろう。

 規則は、「暗黙のルール」という言葉があるように、顕在化しているだけでなく、潜在しているものも多い。諷刺作家は、しばしば、この潜在的規則を顕在化させ、人々の笑いを誘う。一七世紀後半から一八世紀前半の英国はまさにそういう人を食った文学者が闊歩している。それは「諷刺の黄金時代(The Golden Age of Satire)」とも呼ばれている。思いつくだけでも作家の名前を挙げてみれば、ジョン・ドライデン、ジョナサン・スウィフト、アレクサンダー・ポープ、ジョン・ゲイ、ダニエル・デフォー、ウィリアム・ホガース、ローレンス・スターン、エプレイム・チェンバース、サミュエル・ジョンソンなど枚挙に暇ない。

 一六四二年、スチュアート絶対主義打倒でまとまった市民がピューリタン革命を起こす。この内戦は、一六四九年一月、国王チャールズ一世の処刑で一応の決着を見る。王政は廃止され、「イギリス共和国(Commonwealth of England)」が成立する。

 一六五三年、オリバー・クロムウェルがクーデターを指揮し、議会を解散させ、政府・軍の最高官職の護国卿に就任する。彼は史上初の軍事独裁者として歴史に名を刻むことに成る。

 一六五八年、父の死後、後を継いだリチャード・クロムウェルは無能を絵に描いたような人物で、翌年には、分不相応な権力を放り投げてしまう。政局が混乱する中、王党派は、急進的な水平派と対抗していた長老派を議会尊重するという条件で口説き落とし、大陸に逃亡して反コモンウェルス運動を続けていたチャールズ一世の子を帰国させる。彼は、一六六〇年、チャールズ二世として即位し、王政復古が成功する。

 ところが、このカトリックの国王は、権力を手にすると、その約束を反故にする。「ちょろいもんだ」と思ったかどうかは定かではないが、あろうことか、彼は絶対王政への回帰を推し進め、議会を軽視したため、議会と宮廷との対立がエスカレートしていく。

 一六八五年、チャールズ二世が亡くなると、弟がジェームズ二世として即位する。彼も横暴だったが、男の子供がいなかったため、国教会聖職者や地主などのトーリー派が多数を占める議会は対決姿勢を弱め、政治的にではなく、生物学的な解決に期待をかけている。しかし、相手の失敗を待ってチェスを指す名人はいない。八八年、男子が誕生し、それは裏切られてしまう。そこで、議会はオランダのオレンジ公夫妻を国王に招くと議決し、ウィレム公も承諾する。公はフランスのルイ一四世と戦争を始めたばかりだったが、前進する方向を変え、オランダ軍二万を率いてイングランドに上陸を始める。この報を知ったジェームズ二世は慌てて議会に譲歩を示したけれども、拒否される。軍に出撃命令を出そうとしたが、英国軍内部でも、国王のカトリック優遇政策に不満を抱いている兵士が多く、戦闘に応じる動きを見せない。追い詰められたジェームズはフランスに亡命するほか道がなくなる。その後の歴史は、多くの独裁者がこの出来事から教訓を学ばず、自分だけは大丈夫と高をくくる傾向にあることを教えている。同志諸君、歴史はわれわれの味方だ。勝利した市民はこの無血革命を「名誉革命()Glorious Revolution」の名で呼ぶことになる。

 一六八九年、オレンジ公ウィリアムと妻メアリは「権利の宣言(Declaration of Rights)」を受け入れて、ウィリアムズ三世・メアリ二世として即位し、共同統治を始める。ピューリタン革命と王政復古、名誉革命を通じ、絶対王政の時代はイギリスではもはや過去のものとなる。同年一二月、権利の宣言を明文化した「権利の章典(Bill of Rights)」により、国王は立法・行政・司法・課税のすべてにおいて議会の承認を必要とし、国家の最高機関は王権ではなく、議会へと変更される。

 この間、イギリスは三度に亘ってオランダと覇権を争って戦火を交えている。一六五一年、クロムウェルは航海条例を制定する。これは、イギリスとの商品輸出入をイギリス船と当事国・地域の船舶に限定して対外貿易を確保すると同時に、中継貿易で利益を上げていたオランダを締め出す目的に基づいている。オランダは強く反発し、翌年、両国は戦争に突入する。この第一次(一六五二─五四)に始まり、第二次(六五─六七)、第三次(七二─七四)と三度に亘って英蘭戦争が勃発するが、それは海上権と植民地をめぐる争いである。英国が優勢なまま、両国はウェストミンスター条約を締結する。海上の覇権はオランダからイギリスへと移り、ニューアムステルダムがニューヨークと改称したように、新大陸のオランダ領はほとんどが英領となり、オランダの絶頂期は幕を迎える。

 こうしたイギリスをめぐる国内外の変化により、王権を頂点とする身分制のヒエラルキーが崩れ──あくまで絶対主義的ヒエラルキーが解体しただけで、それ自身が完全に消滅していないにしても──、海外植民地から膨大な量の物と情報が流入してくる。すべてが無秩序に英国に堆積していく。しかし、アダム・スミスは、封建制的秩序の崩壊と資本主義の進展を前に、こう説く。「『自由放任(laissez-faire)』に任せよ」。市民も馬鹿ではない。そう、理性が決着をつけてくれる。

 英国の諷刺文学はこの混沌と共に発達している。ユウェナリスが諷刺はすべてを扱うといみじくも語っていたように、それは、恐るべき消化器官を持っており、膨大な無秩序な堆積物を飲み込める。諷刺は、記号化のミメーシスの作業を通して、混沌に潜在している規則を顕在化させ、秩序を与える。諷刺作家は膨大な情報を記号化して、作品に圧縮・保存する。ただ、ピラミッド型の秩序を斥け、並列させるため、時として、それが雑然としており、グロテスクであることも少なくない。

 このような諷刺を創作する作家もしなやかであると同時にしたたかである。彼らは、器用に、作品を書く度に、ジャンルも文体も使い分ける。さらに、社会的・時代的変化に応じて、政治的・宗教的に臨機応変な姿勢をとっている。それはカメレオンである。

 ジョン・ドライデン(John Dryden)の思想遍歴は諷刺の黄金時代の気質をよく物語っている。彼は、一六五八年に亡くなった護国卿オリバー・クロムウェルを追悼する詩で注目されたにもかかわらず、六〇年に王政復古が成立すると、一転して王政主義者となり、国王チャールズ二世の復帰を祝して『星姫再臨』(一六六〇)と『即位式にあたり国王陛下に捧ぐ』(一六六一)を表わしている。六三年、彼のパトロンであり、宮廷劇作家のロバート・ハワードの妹エリザベスと結婚している。

 一六六二年、ドライデンはよりよい収入を求めて、戯曲を書き始める。六四年の悲喜劇『恋敵』で成功し、それから二〇年間、英国を代表する劇作家の名声をキープする。当時、社交界の風俗を扱い、機知と洗練さに溢れた「風習喜劇(Comedy of Manners)」が宮廷中心の観客に好まれている。しかし、ドライデン劇の作風は猥雑で、淫らな内容も少なくなく、とうとう『親切な旦那、またはリンバラム氏』(一六七八)が、下品という理由で、無礼講の時代の当局から異例の上映禁止の措置を受けている。

 王政復古期は、ピューリタンの支配による禁欲主義の反動と国王の節制のせの字もない贅沢・放蕩三昧の生活から、芸術作品にエログロナンセンスがよく描かれた時代である。少々のことでは当局も規制しなかったが、ドライデンは羽目をはずしすぎていると判断されている。

 言うまでもなく、ドライデンは卑猥な作品だけを執筆していたわけではない。詩の分野においても、卓越した才能を発揮している。初期の作品は韻律を踏む音楽的な傾向が顕著だったが、後に無韻詩へ向かいっている。中でも、『驚異の年』(一六六七)では、前年に起きたイギリス海軍によるオランダ軍撃破とロンドン大火を描き、社会的関心の高さも示している。また、ウィリアム・シェークスピアの『アントニーとクレオパトラ』をモチーフにした『すべては恋のために』(一六七八)は、王政復古における悲劇の最高傑作の一つと数えられている。六八年、「桂冠詩人(Poet Laureate)」と認められ、その二年後、王室年代記編纂官に任命される。

 ドライデンは、一六八一年、『アブサロムとアキトフェル』を創作し、諷刺詩へと活動範囲を広げる。英雄対韻句によるこの詩は、聖書の登場人物と出来事を用いて、議会少数派のホイッグ党が現国王チャールズ二世の弟ヨーク公でなく、モンマス公を次の王座に就けようとした政治的陰謀を諷刺している。彼は諷刺詩でも人目を惹かずにはいられない。ホイッグ派の劇作家トマス・シャドウェルを痛烈に諷刺した詩『マクフレクノー』(一六八二)はアレクサンダー・ポープのパロディ詩『愚人列伝』に影響を与えている。

 当然、ドライデンに対し、腹に据えかね、いつか仕返しをしてやるという思いにかられた作家も少なくない。一六七一年、第二代バッキンガム公はバーレスク戯『リハーサル』を書き、ドライデンを扱き下ろす。相手の手の内を暴露し、それを茶化すのはこの時代によく見られる手法であり、それは「劇中劇(Play-within-a-play)」と呼ばれている。このリハーサル劇は傑作として好評になったものの、憎きあの男をギャフンと言わせるまでには至らない。

 こうした諷刺作家には、どこらともなく横槍が入ることが付き物である。特に、当時の芸術家は、全般的に、潤沢な財産を所有するパトロンの政治的・経済的な庇護の下に活動しているため、支援者の立場を配慮し泣ければならない。ドライデンも、やはりパトロンのご機嫌を損ねることまではしない。しかし、アレクサンダー・ポープ(Alexander Pope)はそういう手心を加える欺瞞を嫌悪し、遠慮会釈のない徹底的な諷刺を貫徹している。彼はドライデンの手法を引き継いで英雄対韻句を用い、より洗練された形式に完成させている。しかも、ポープはパトロンを持たず、イギリス史上初の自立した職業作家である。彼はポープはホメロスを翻訳し、その利益で経済的基盤を確保している。ただ、その販売法は今日の慣習とは異なっている。それは、出版業者から提供された本を訳者自身が予約者に代金と引き換えで販売するという方法であり、言ってみれば、作家は歩く書店である。自立した作家のポープは、これにより、気兼ねなく、辛辣に無能や不正、横暴、偽善を諷刺していく。

 

What dire offence from am'rous causes springs,

What mighty contests rise from trivial things

(Alexander Pope “The Rape of the Lock”)

 

 ポープは、社会にはびこるありとあらゆる愚鈍や卑劣、衒学を暴き出すために、スクリプレラス・クラブ(Scriblerus Club)の仲間と共に「マータイナス・スクリブレラス(Martinus Scriblerus)」という架空の人物を考案する。彼らは、一七四一年、この似非学者による『マータイナス・スクリブレラスの回想録(The Memoirs of Martinus Scriblerus  )』を刊行し、言葉のルーブ・ゴールドバーグとも言うべき学者や作家を嘲笑する。

 一六八五年、そのヨーク公がジェームズ二世として即位する。このカトリック教徒は議会と民衆の反対に耳を貸さず、兄の死を理由に王冠を頭に被り、専制政治を強行する。ドライデンは、詩『平信徒の宗教』(一六八二)において自身のプロテスタンティズムを正当化していたが、八五年、早速、カトリックに改宗し、詩『牝鹿と豹』(一六八七)で新たな信仰を弁護している。八八年に名誉革命が起こり、プロテスタントのウィリアム三世が王位を継承したけれども、どうしたことか、彼は改宗しなかったため、桂冠詩人の地位と恩給を失ってしまう。

 そこで、ドライデンは戯曲に戻る。しかし、パッとしなかったこともあり、翻訳に方向転換する。彼は個人で古代ローマのウェルギリウスを全訳し、一六九七年、『ウェルギリウス全集』を刊行している。彼の翻訳は、現代の基準から見れば禁欲的と言うよりも、創作が入り混じっているが、翻訳が極めて創造的作業であることを感じさせる。ホメロスやオウィディウス、ジョヴァンニ・ボッカッチョ、ジェフリー・チョーサーの作品を韻文を使って翻案した『古今寓話集』(一七〇〇)も、その延長線上で、書かれている。

 ジョン・ドライデンが、一八世紀を見ることなく、一七七〇年、永眠している。それは、オスカー・ワイルドが二〇世紀の直前にこの世を去っていったのと同様、一つの諷刺と言えなくもないだろう。

 

From Harmony, from heavenly harmony  

This universal frame began:

(John Dryden “Song for St. Cecilia's Day”)

 

 ドライデンに限らず、諷刺の黄金時代の作家にはエピソードが多く、それは諷刺を体現している。” Great wits are sure to madness near allied, and thin partitions do their bounds divide”(John Dryden “Absalom and Achitophel").サミュエル・ジョンソンは極度に視力が弱く、まつげでページを掃除するよう日本を読んでいる。すぐにキレるので知られたアレクサンダー・ポープは、病気の後遺症により、成人後の身長が137cmほどしかなく、しかも、激しい頭痛に苦しめられている。ジョン・ゲイは優柔不断な男で、人の意見を聞く度に考えが揺れ動いている。第二代ロチェスター伯ことジョン・ウィルモットはアルコールに溺れ、女優と浮名を流しながらも、振り向いてくれない女性を拉致し、ドライデンに暴漢を差し向けるようなことをしておいて、臨終の床ですべてを悔い改めている。

 また、ジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift)は、どこまで本気なのかわからない次のような自身の墓碑銘を書いている。

 

Hic depositum est corpus

JONATHAN SWIFT S.T.D.

Huyus Ecclesiae Cathedralis

Decani

Ubi saeva indignatio

Ulterius

Cor lacerare nequit

Abi Viator

Et imitare, si poteris

Strenuum pro virili

Libertatis Vindicatorem

 

 さらに、ローレンス・スターン(Laurence Stern)は他人のために働きたくないという理由で執筆生活に入ったものの、伯父と反目し、母親の強欲さと妻の精神衰弱に悩まされている。

 その彼の『トリストラム・シャンディ(The Life and Opinions of Tristram Shandy, Gentleman,)(一七六〇─六七)には文字だけでなく、第六巻四〇章の中に次のようなイラストまで挿入されている。

 

[ 152 ]

I Am now beginning to get fairly into my work; and by the help of a vegitable diet, with a few of the cold seeds, I make no doubt but I shall be able to go on with my uncle Toby's story, and my own, in a tolerable straight line.

Now,

 

                         These

 

[ 153 ]

  These were the four lines I moved in through my first, second, third, and fourth volumes.-- In the fifth volume I have been very good, -- the precise line I have described in it being this :

 

 

By which it appears, that except at the curve, marked A. where I took a trip to Navarre, -- and the indented curve B. which is the short airing when I was there with the Lady Baussiere and her page, -- I have not taken the least frisk of a digression, till John de la Casse's devils led me the round you see marked D. -- for as for c c c c c they are nothing

but parentheses, and the common ins and outs incident to the lives of the great-est ministers of state ; and when com-

                          pared

 

 ドライデンは、『諷刺の起源と発展に関する論考(A Discourse Concerning the Original and Progress of Satire)(一六九三)において、「諷刺(satire)」の語源として二説を紹介している。一つはギリシア神話の「サテュロス(Σάτυροι)」に由来する説である。サテュロスはディオニュソスの従者であり、上半身は人間だが、下半身は山羊の姿をしている。山羊は多産のため、西洋では、好色という意味を帯びる。諷刺は淫らな乱痴気騒ぎをはらんでいるわけだ。

 もう一つはラテン語の「詰め込み(satura)」を語源とする説である。ありったけのものをおかまいなしに詰めこんだのが諷刺であり、その本質は、ドライデンによれば、「混合(Mixture)」あるいは「ごった煮(Hotchpotch)」である。

 サミュエル・ジョンソンがジョン・ドライデンを「英国批評の父(Father of English Criticism)」と呼んでいるように、こうした二つの起源が混在する諷刺から批評が生まれる。サテュロスが喜びそうないささか猥褻な作風で知られる彼が「父」であるとすれば、批評は猥雑にならざるを得ない。

 この二つの要素を持った諷刺の原型は紀元前三世紀メニッポスに求められよう。しかし、不幸にも、彼の作品は題名以外現存していない。幸運にも、ルキアノスが彼を主人公として諷刺作品を書いており、いかに愉快な人物だったかを伝えている。しかし、こうした状況こそ諷刺にふさわしい。諷刺の黄金時代の作品は「メニッポス的諷刺(Menippean Satires)」と総称できる。

 諷刺のミメーシスは対象の固有性を把握していなければ有効ではないため、その本質を批判的に分析する必要がある。批評家にも、諷刺作家同様、俳優の才能が不可欠である。逆に、諷刺によって固有性が体感できる以上、批評は諷刺の能力・手順を踏まえていなければならない。批評は「ごった煮批評」、すなわち「ハッチポッチ・クリティシズム(Hotchpotch Criticism)」として誕生したのである。

 ドライデンの代表的な批評『劇詩論(Of Dramatick Poesie: An Essay)(一六六八)は諷刺的批評、別名ハッチポッチ・クリティシズムの模範例である。ドライデンは古今東西の文化を並列化・相対化し、すべてを土俵に載せている。一八六五年六月の第二次英蘭戦争の最中、戦火を避けてテムズ川で舟遊びをする四人の文学者によるシンポジウムという設定で書かれている。『オズの魔法使い』同様、登場人物にはモデルがいて、それぞれに意味深な名前がつけられてある。近代文学を賞賛する「ユージニアス(Eugenius)」は「生まれよき人」に由来し、国王の寵臣チャールズ・サックヴィルであり、古典こそ真の文学と力説する「クライティーズ(Crites)」は「批判者」を指しており、共作者でドライデンの義兄ロバート・ハワード、フランスの新古典主義に傾倒する「リシディアス(Lisideius)」はコルネイユの『ル・シッド(Observations sur le Cid)』を暗示させ、劇作家チャールズ・セドリー、さらに「ネアンダー(Neander)」は「新しき人」を意味し、ドライデン本人である。

 

 Neander was pursuing this Discourse so eagerly, that Eugenius had call'd to him twice or thrice ere he took notice that the Barge stood still, and that they were at the foot of Somerset-Stairs, where they had appointed it to land. The company were all sorry to separate so soon, though a great part of the evening was already spent; and stood a while looking back upon the water, which the Moon-beams play'd upon, and made it appear like floating quick-silver: at last they went up through a crowd of French people who were merrily dancing in the open air, and nothing concern'd for the noise of Guns which had allarm'd the Town that afternoon. Walking thence together to th Piazze they parted there; Eugenius and Lysideius to some pleasant appointment they had made, and Crites and Neander to their several Lodgings.

 

 当時、オランダは欧州で最も繁栄していた経済大国であり、イギリスはそれに取って代わろうとする新興勢力である。イギリスは祖国存亡の危機にあったのだが、それをよそに優雅に文学を多様な観点から語り合うというのはまったく心憎い。

 この叙述スタイルは諷刺の批評の特徴を顕著に示している。諸理論が騙られても、何かを頂点としてヒエラルキーを構築することはないし、収束されていくこともない。それらは水平に並べられている。作者は諸理論を並列に配置していくことに能力を注いでいる。

 並列への遺志に基づいている以上、博識でなければ、諷刺の批評を書くことはできない。古今東西の知識を熟知していないで、批評家になれはしない。作家は歩く辞書であり、歩く百科全書である。引用は。読者に媚びることなく、原文で膨大かつ周到に行い、もし読者がその言語を知らなかったなら、甘ったれることなく、それを調べるべきだろう。弱虫に読書する資格などない。目の前にあるのは、知的体力・根性に満ちた辣腕の批評家が記した本である。軟弱な作品ではない。心してページを開くことだ。夏目漱石がジョン・ドライデンに尻込みしたように、批評家は読者を圧倒しなければならない。

 けれども、この時代の諷刺作家は、ケツの穴が小さい現代と違い、独創性を気にしない。著作権や印税システムが確立していなかったからだけではない。諷刺は独創性に捕らわれていたのでは、成り立たないからだ。諷刺は自己の複数性に基づく文学である。「批評するとは自己を語る事である。他人の作品をダシにして自己を語る事である」(小林秀雄『アシルと亀の子U』)。これほど諷刺の黄金時代から遠い意見はない。

 当時の諷刺は怪文書や贋作としても流通している。トマス・チャタトン(Thomas Chatterton)は、中世の文体を模倣し自ら創作した詩を架空の一五世紀詩人トマス・ロウリ(Thomas Rowley)作として発表している。しかし、ピーター・アクロイド(Peter Ackroyd)が彼の才気を踏まえて『チャタトン偽書(The Diversions of Purley)(一九八七)を刊行しているように、現代ならばパスティシュの傑作と絶賛されるはずだろうが、ほどなくそれが贋作だとバレてしまい、一七七〇年、一八歳で自殺する。

 

Wouldst thou kenn Nature in her better parte?

Goe, serche the logges and bordels of the hynde ;

Gyfe theye have anie, itte ys roughe-made arte,

Inne hem you see the blakied forme of kynde.

Haveth your mind a lycheynge of a mynde?

Woulde it kenne everich thynge as it mote bee;

Woulde ytte here phrase of the vulgar from the hynde,

Wythoute wiseegger wordes and knowlache free,

Gyf soe, rede thys, whych Iche dysporteynge pende,

Gif nete besyde, yttes rhyme maie ytte commend.

(Thomas Rowley “Eclogue the Third”)

 

 こうした諷刺的批評の精神が辞典や辞書の作成を促したのは自然の流れだろう。それはまさに記号を並列に配置している。

 一六六〇年、ロンドン王立協会が創立される。初代総裁トマス・スプラット(Thomas Sprat)は、『王立協会史(The History of the Royal Society)(一六六七)の中で、協会では言葉の「シンプルさ(simplicity)」を最も尊んだと言っている。このベーコン主義者によると、これからの学者は誇張や脱線、もったいぶった文体を斥け、多くの人が言葉を通じて理解を共有できるように、簡潔で控え目、素直、明確、平明な叙述な心がけ、さらに、言葉の意味と用法を統一しなければならない。王政復古にもかかわらず、その主張にはピューリタニズムの影響が見られる。

 サミュエル・ジョンソン(Samuel Johnson)の英語辞書は王立協会の目標のパロディである。当時の英語は単語の綴りもまちまちで、階級や地域による発音や用法の違いも著しく、その状況はアナーキーと言っても過言でない。協会は英語における統一王朝を企てたわけだが、彼は英語の立憲政治を実現したのであり、その功績により、彼は近代英語を作った男と賞賛されている。以後、彼の辞書が英語の規範となった反面、”dramatick”とワープロ・ソフトで綴るとスペル・ミスの警告が合図されるのを彼のせいにするは酷であるとしても、多様性を削いでしまったのは確かである。

 サミュエル・ジョンソンは英語辞典を編纂する際に、収録語の数よりも、正書法を確立し、その用例には古今東西の文献から厳選している。一七五五年に刊行された『英語辞典(A Dictionary of English Language)』はルネサンス期から一八世紀までの英語の文選あるいは引用集でさえある。謙虚にも、不定冠詞を用いているが、手にとった人はこの字引を英語辞書における定冠詞とし讃える。助手六人を使っていたものの、ジョンソン博士は.膨大な読書量に裏打ちされた驚異的な知識を活用し、ほぼ独力で完成させている。

 

 It is the fate of those who toil at the lower employments of life, to be rather driven by the fear of evil, than attracted by the prospect of good; to be exposed to censure, without hope of praise; to be disgraced by miscarriage, or punished for neglect, where

success would have been without applause, and diligence without reward.

 (Samuel Johnson “Preface to a Dictionary of English Language”)

 

 彼は、英国の法体系の如く、英単語の語源とその用法の変化を歴史的・経験的な「事実」を積み重ね、ヒエラルキーを排除している。この編纂の方針は、オックスフォード英語辞典などその後の英国の辞書に受け継がれている。

 サミュエル・ジョンソンは、諷刺の黄金時代の知識人らしく、英語辞書だけでなく、もう一つの規範も提供している。ジョンソンの弟子の一人ジェイムズ・ボズウェル(James Boswell)は、自作にさらりと引用するにはもってこいの名言が並ぶ『サミュエル・ジョンソン伝(The Life of Samuel Johnson)(一七九一)を著わしているが、これは近代伝記文学の出発点である。

 

 “When a man is tired of London, he is tired of life; for there is in London all that life can afford”.

 

 “Hell is paved with good intentions”. 

 

 “Patriotism is the last refuge of a scoundrel”.

 

 しかし、英国の諷刺の黄金時代は、残念ながら、ヨーロッパでの文化的ヘゲモニーの凋落における輝きである。この時代の精神は産業革命により世界で最先端の資本主義国家ではなく、まだ未発達の大陸で引き継がれていく。” All human things are subject to decay, and when fate summons, monarchs must obey” (John Dryden ”MacFleknoe”).

 森毅は、『数学の歴史』の中で、一八世紀の欧州におけるイギリス文化について次のように述べている。

 

 イギリスはたしかに「先進的」であったし、ロックとニュートンは一八世紀ジンの輝きの星だった。フランクリンやペインを通じて、それがアメリカ独立の起動力になったばかりか、モンテスキュやヴォルテールを通じて、啓蒙主義からフランス革命にまでいたる思想的原動力でありさえした。しかし、実際は、この時代にはイギリスはヨーロッパ文化の王座から転落しつつあった。

 

 ジョン・ロックとアイザック・ニュートンの時代は、「イギリス文化を世界最高の位置にのばした」。しかし、大陸に対する英国の文化的優勢さは。経済力の進展とは反比例するかのように、一八世紀に衰えていく。その文化の花は英国で枯れ、その種が飛んだ大陸、特にドーバー海峡を挟んだフランスで咲き乱れる。

 一八世紀、フランス語と手紙のネットワークによる「文芸共和国(Republic of Letters)」が欧州で形成されている。身分や出自を問わず、フランス語の読み書きができれば、このコモンウェルスに参加できる。王侯貴族や芸術家、知識人、文学者、商人、裕福な女性が加わり、議論を交わしている。この文芸共和国は諷刺の黄金時代の精神を発展させている。

 森毅は、『数学の歴史』において、一八世紀について次のように述べている。

 

 現在の数学のどの分野でもオイラーの名を冠した基本公式を見出すことができる。オイラー、そしてラグランジュ、それにダランベールまで付け加えれば、現在に及ぶ数学の根幹は、十八世紀にできたともいえる。数学にとって、基本的な事実の発見という点からみれば、この時代は今までの歴史最高かもしれない。十八世紀は、数学にとって、事実の世紀だったのである。

 ついでに、この種の標語づくりを、比較のために試みれば、十七世紀は原理の世紀であり、十九世紀は体系の世紀とでもいうことになろうか。後代の人は、二十世紀をなんとよぶだろう。現代人のなかにはそれを方法の世紀とよびたがる人もあろうが、まあ、それはこれからの問題である。

 しかし、これらの個別的事実だけに、十八世紀を代表させるのも正しくない。歴史はいつでもそうだが、その時代の主流と共に、次代の主流となるべき流れが始まってもいるのだ。百科全書派は、この事実を秩序づけはしなかったが、十九世紀を育んでもいた。

 

 一八世紀は一七世紀に発見された「原理」に立脚し、「事実」を探し出す。それは学びへの意志である。啓蒙主義は知識人による民衆の無知からの解放ではなく、すべてを知り尽くしてやろうというと知的貪欲さの現われである。啓蒙主義者も所属していた文芸共和国が生み出した最高傑作が百科全書である。それはエプレイム・チェンバース(Ephraim Chambers)の『百科辞典(Cyclopedia)(一七二八)に影響されて始まり、一八世紀を代表する知的プロジェクトである。百科全書は「百学をひとつのサイクルに統合しようとするものだった。しかしながら、時代はまだ成熟していなかった。それどころか、十九世紀の秩序ある分断がその後に来るのである」(『数学の歴史』)。百科全書は「普遍的統合の外被における個別的集積」を見られ、一八世紀の二重性を体現している。

 諷刺の黄金時代も「普遍的統合性」と「事実の堆積」という二面性を持っている。確かに、この時代は、部分的に、一七世紀に属している。しかし、その精神は一八世紀の魁だったと捉えるべきであろう。

 一八世紀は「理性の世紀」と呼ばれるが、その理性は諷刺的である。啓蒙主義という合理主義と諷刺という非合理主義の拮抗、すなわち合理=非合理の対立図式による一八世紀をめぐる理解は近代に毒されているにすぎない。百科全書は、諷刺同様、古今東西の知識・情報をまとめ上げている。しかも、データ・ベースでは使いやすさが優先される。神ではなくアルファベット順、すなわちロゴスによって並列に整理されている。神を頂点とするヒエラルキーは瓦解し、神も、人間同様、理性の裁きを受けなければならない。一八世紀は神が人間宣言した時代である。”Know then thyself, presume not God to scam; the proper study of mankind is man”(Alexander Pope ”An Essay on ManU).

 この時期に、イギリス国王が議会の承認なしに政治に携われなくなったように、詩の絶対的優位さは崩れ、散文も詩と平等の地位を獲得する。ドライデンが桂冠詩人を剥奪されながらも他の分野で活躍した通り、詩人がそれだけである時代は終わり、散文も手がけていく。散文は活況を呈し、ジャンルにおかまいなしに、作家たちは作品を書きまくっている。啓蒙主義者の散文にはロマンスやSF、ファンタジー、アナトミー、諷刺などありとあらゆるジャンルが含まれている。批評もそうした一つのジャンルとして成立している。ただ、ジャンルとの境界ははっきりしておらず、批評は同時に他の何ものかでもある。

 ところが、一九世紀に突入すると、事態は一変する。近代は神に有罪判決を下し、処刑してしまう。神は死んだのである。

 森毅は、『数学の歴史』において、カール・フリードリヒ・ガウスを用いて、一八世紀と一九世紀の違いを次のように述べている。

 

 「応用数学者」であることが「純粋数学者」であることでもあり、「物理学者」であることが「数学者」であることでもあるという意味で、ガウスは最後の十八世紀数学者であった。そして同時に、「純粋数学」に自立した意味をあたえ、得られた事実を一つの理論体系の中に眺めざるをえないという意味で、ガウスこそ最初の十九世紀数学者であった。

 

 詩人にして劇作家であり、なおかつ翻訳家にして批評家であるようなとらえどころのないユーティリティ・ライターは一九世紀には、事実上、姿を消す。何かある分野を専門として、必要に迫られて、慎ましく他に触れるにとどまる。

 一九世紀、神が死んだことにより、学問は根拠を超越性に求められない。自身で根拠付けなくてはならなくなる。諸領域において、細分化・専門化が進む。体系の世紀のその名の通り、それぞれの部門は自立し、体系化していくと同時に、おおらかさは消え、縄張りを守ることが暗黙のルールとなる。

 神の死を迎えると、身分や階級が「国民」へと集約されたように、散文ジャンルは「小説(Novel)」に標準化される。小説、より正確には「近代小説(Modern Novel)」は体系の文学と呼べよう。それ以前に存在していなかったにもかかわらず、小説は文学の主権は自分たちにあると主張する。とは言うものの、小説は自ら根拠付けなければならず、批評はその代理人として社会に訴えなければならなくなる。批評家は職業として確立したが、その代償は大きい。

 海野弘は、海野弘=小倉正史の『現代美術』に所収されている「〈モダン・アート〉とはなにか」において、近代芸術への批評の役割について次のように述べている。

 

 階級的保護を失い、現代の商品社会、広告社会に投げこまれたモダン・アートは、商品化を避けることができず、その差異性を示すためのことば(宣言、広告)を持たなければならなかった。モダン・アートの特徴である、ことばの重要性をそれは予告している。美術がこれほどたくさんのことばを持ったことはなかった。美術があって、それを語ることばがくるのではなく、むしろ、まずことばが発せられ、そのことばにうながされて、美術作品があらわれるといっていいほどだ。

 このような、ことば(観念、記号)の先行性からして、批評がそれまでとは比較にならないほど大きな影響力を持つようになる。批評家はモダン・アートの秘密をにぎる権威として振舞うようになる。モダン・アートは難解であり、一部のエリートによって解読できるという神話がつくりあげられる。

 

 芸術は、階級的保護を失うと、時代の、普遍的な、支配的様式であることをやめて、諸〈運動〉に解体する。モダン・アートは、〈運動〉という様態をとるのである。

 

 これは芸術だけに起きた変容ではない。神の死において、批評は新たな理論に立脚する小説のスポークスマンと貶められてしまう。この小説が何を意味するのかを読者に解説しなければならない。それを拒否する批評家も登場するが、彼らは自己を語ることに専心する。その結果、批評家には極めて狭い専門的な知識や過剰な自意識だけが必須となり、百科全書的な博識は求められなくなる。俳優のセンスも批評家の条件から外される。

 二〇世紀、神は死んだかと思っていたら、延命装置につながれ、普遍的な意味において、生きているとも死んでいるとも言い難い状況になっていたことが発覚する。近代科学の進歩は著しい。いずれ神のDNAを解読し、そのクローンを誕生させるに違いない。神の死は決定不能になったのである。

 方法の世紀である二〇世紀、近代小説に代わって、方法の文学とも呼ぶべき「現代小説(Contemporary Novel)」が主流となるが、それは「メロドラマ(Melodrama)」である。国民に代わってエスニックが噴出したように、SFやファンタジー、ミステリー、サスペンス、ホラーなどのジャンルの復活を意味する。しかし、批評は依然として小説の時代と同様の地位に甘んじている。なるほど、批評自身も判断基準を立て、新批評や構造主義批評、受容理論、フェミニズム理論、カルチュラル・スタディーズなどさまざまな理論を提唱する。それぞれチャーミングであることは否定しない。けれども、官僚主義に浸かりきった小役人か悩み多き文学青年、狭量な自惚れ屋が批評を発表しているという惨憺たる有様である。

 近代以降、諷刺文学の伝統が希薄な日本では、小説執筆に際、記号としての対象把握が二の次にされている。たるんだ批評家の中には、対象の固有性をろくに書き分けられない小説家を批判するどころか、おめでたいことに、賞賛しさえする者までいる。批評家は、書く間に、ロバート・デュヴァルにならなければならない。

 二〇世紀後半、非線形への関心の高まりから学際的研究が本格化する。また、ネットの発達は爆発的な情報を世界規模で体積・拡散させ、E文芸共和国をもたらしている、もはや「ここだけの話だけど(It is between you and me)」を文字通りに信じる者などいない。それは従来の批評ではなく、諷刺的・百科全書的批評の再認識を促している。”True wit is nature to advantage dressed, what oft was thought, but ne’er so well expressed”(Alexander Pope “An Essay on Criticism”).

 けれども、情報の氾濫の中、既存の批評家がそれに対処しきれないでいるため、ブログなど感じた印象を思いつくままに記すのが批評として受容されている。メニッポス的諷刺の時代が到来したのであり、批評はメニッポス的諷刺を内包していなければならない。高名なるマータイナス・スクリブレラス博士は、聡明なる頭脳と豊富な学識による熟慮の上で、それを憂いつつ、こう断言するに違いない。「現代において最も必要とされているのは、『ごった煮批評』、すなわちわれわれの言うところの『ハッチポッチ・クリティシズム』にほかならない」。

 

 A little learning is a dangerous thing;

 Drink deep, or taste not the Perrian spring.

(Alexander Pope “An Essay on Criticism”)

〈了〉

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